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特別攻撃隊

特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)とは

日本海軍が漸減作戦用に開発した甲標的を用いて編成した泊地攻撃部隊。確率は低いが生還の可能性もあり、作戦的に帰還者受け入れの準備も成されていた。このような通常の兵器ではない兵器も「特攻(特種攻撃)」兵器のカテゴリーに入るため、通例で言う特攻としばしば混同されることに注意を要する[1]。
真珠湾攻撃における特別攻撃隊は真珠湾攻撃を参照。
シドニー港における特別攻撃隊は特殊潜航艇によるシドニー港攻撃を参照。
太平洋戦争末期に日本軍が編成した、生還の可能性の無い(主に航空機による)連合国艦艇に対する体当たり攻撃を実行するための部隊である。特攻隊(とっこうたい)・特攻(とっこう)と略す場合が多い。外国語においても「Tokko」(トッコウ)「Kamikaze」(カミカゼ)とは戦死を前提とした体当たり攻撃として通じている。本項で詳述。
人間爆弾「桜花」や人間魚雷「回天」等、特攻を目的として造られた、もしくは改装された兵器については「特攻兵器」を参照。
戦艦大和以下第二艦隊の沖縄水上特攻に関しては「#水上特攻」または坊ノ岬沖海戦を参照。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 名称の由来
1.2 陸軍の特別攻撃隊
2 背景
3 編成
3.1 特攻に反対した指揮官
3.2 特攻隊員
3.2.1 構成人数・比率と戦死者数
3.2.2 「特攻隊」生還者
3.2.3 元特攻隊員の著名人
4 戦法
4.1 戦闘機による特攻
4.2 特攻専用機
4.3 練習機による特攻
4.4 爆撃機・その他の機体による特攻
4.5 燃料・整備
5 戦果と米軍の対応
5.1 戦果
5.1.1 連合軍艦艇の被害
5.2 対応
5.2.1 対空砲火
6 特攻に類似する攻撃
6.1 水上特攻
6.2 防空戦
6.3 陸上戦
6.4 ドイツ空軍の事例
7 評価
7.1 日本での評価
7.2 日本国外での評価
7.3 自爆テロと特攻の違い
8 北朝鮮の特攻計画神話
9 特別攻撃隊を描いた作品
10 脚注
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク



[編集] 概要
特攻(=特別攻撃)とは、爆弾を搭載した軍用機や、爆薬を載せた高速艇等の各種兵器が、敵艦船等の目標に乗組員ごと体当たりする戦法である。太平洋戦争末期の日本で、陸海軍あげての大規模な作戦として実施されたが、乗員が生還する可能性は皆無に等しく、(突入失敗で海面に激突し、奇跡的に助かった航空機搭乗員の例もあるが極めて稀なことであった)「突入」すなわち「死」を意味すると言えた。

背景には、F6Fに代表されるアメリカ軍機の対空迎撃能力の飛躍的向上と、航空機燃料の品質悪化や航空機の生産過程での品質の低下により、日本軍の航空戦力が劣勢になって、通常の航空攻撃では充分な戦果を敵艦隊から挙げにくくなったことがある。さらに台湾沖航空戦の結果、フィリピンでの稼動航空機数が激減し、少数の兵力で有効な戦果を挙げるために最も確率の高い方法として、やむを得ず実行されたのが始まりである(部隊編成は19年初秋には始まっていた)。


最初の特攻隊として艦船に突入し軍神と畏敬された関行男中佐レイテ沖海戦より始まった特攻は、硫黄島やウルシー・サイパンへの作戦を経て、沖縄戦において最高潮に達した。沖縄周辺に侵攻したアメリカ海軍やイギリス海軍、オーストラリア海軍を中心とした連合国軍の艦隊に対し、日本軍は菊水作戦を発動して特攻隊を編成し、九州・台湾から航空特攻を行った。これと連動して戦艦大和以下の艦艇による“水上特攻”や回天、震洋などの体当たり艇など、各種特攻兵器が大量に投入された。

特攻は護衛空母3隻を撃沈、複数の正規空母を終戦まで戦列から去らせるなど相応の戦果を挙げ、戦後の米戦略爆撃調査団はその有効性をかなり高く評価している。フィリピンで特攻による損害を強いられた米軍は、沖縄戦の頃にはピケット艦や空母艦載機編成の改編等様々な対策を採っており、特攻の有効性は大きく減じられることとなった。日本側はこの後も当初より問題視されていた威力不足の改善を図る等の対策を採り、想定される本土決戦に向けて大量の特攻戦備を整えている段階で終戦を迎えた。


[編集] 名称の由来

1945年、沖縄戦に参加した特攻隊員、平均年齢17歳特攻隊は、海軍・陸軍とも航空機や船舶など多くの部隊が編成されているが、最も著名なものが海軍の神風特別攻撃隊で、これは海軍航空機からなる特別攻撃隊である。名称の由来は元寇を追い払ったと言われる「神風」から、また、明治時代に起きた神風連の乱(読みは「しんぷうれん-」)も影響しているとの説もある。本来の読みは「しんぷうとくべつこうげきたい」であるが、初出撃を報じる「日本ニュース」第232号[2]ナレーションで「かみかぜとくべつこうげきたい」と読んで以降、「かみかぜ〜」が定着した。あまりにも著名であるために、戦後には特別攻撃隊の別称として「カミカゼ」が使われる場合も多く、ウィキペディア各国語版もこの項目名に対し「カミカゼ」のローマ字読み(又はその語源での表記)の表記を用いている。


[編集] 陸軍の特別攻撃隊
陸軍の(航空)特別攻撃隊は、当初は海軍の「神風」のような統一した隊名を用いなかった。フィリピン戦線に投入された富嶽隊(浜松、四式重爆撃機)と万朶隊(鉾田、九九式双発軽爆撃機)に始まり、その都度命名された。その当時の陸軍特攻隊指揮官は悪名高い富永恭次中将である。しかし沖縄戦が始まり、回数が増えると、やがて「第○振武隊」のような命名が増えていった(丸には数字が入る)。沖縄戦では知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。陸軍の特攻を指揮したのは菅原道大中将であった。また、海上から海上挺身戦隊など(所謂、連絡艇・レ艇)による攻撃も行われた。


[編集] 背景

1944年10月、護衛空母に突入する瞬間の零戦。この直後に対空砲で空中爆発した。大日本帝国陸海軍は、日露戦争における旅順港閉塞作戦等でも決死隊を編成したことはあったが、これは決して生還を期さない任務ではなく、ただ決死の覚悟で極めて困難で危険な任務を果たすと言う目的で作られた部隊であった。太平洋戦争においても特攻と言うべき攻撃が自主的・偶発的に行われたことはあり、珊瑚海海戦で機動部隊の上空直衛を行っていた宮沢武男兵曹の零戦が空母 翔鶴へ雷撃態勢に入ったTBD デバステーター1機を撃墜し、更にもう1機に対しては撃墜の暇なしと見て体当たりを敢行し撃墜、戦死した例や、マリアナ沖海戦において敵艦隊攻撃のために彗星に搭乗していた小松兵曹長が空母大鳳から発艦直後、米潜水艦から発射された母艦に迫る魚雷を発見し、魚雷目掛けて海面に突入した[3]例など、自分を犠牲にして体当たりしてでも仲間を護る、もしくは戦果を挙げると言う例は見られた。

また、台湾沖航空戦では既に形勢の決まっていた戦闘末期に、本来地上で指揮をとる筈の第26航空戦隊司令官有馬正文少将(戦死後中将に特進)が、自ら攻撃部隊の空中指揮をとるとして攻撃部隊の一式陸攻に搭乗し攻撃参加して未帰還、戦死するなど、特攻の下地は醸成されつつあった。後年、この有馬司令官の挺身攻撃が「特攻の先駆け」とも呼ばれるようになった。

日本軍では「生きて虜囚の辱めを受けず」(「戦陣訓」より)という、捕虜に対する強い否定的意識が兵隊に訓育されていたことより、負傷や機体の損傷によって帰還が絶望的な場合は、自爆や敵に突入するという、他国の兵隊にはあまり見られない選択をする者が多かった。もっとも、アメリカその他の国の兵士も、同じような状況に陥ったときに必ず降伏したわけではない。しかし、正規軍が組織的な特攻を行なった例は、大日本帝国陸海軍以外には見られない。


沖縄近海で特別攻撃隊機の攻撃を受け炎上するイギリス海軍空母ビクトリアス特別攻撃隊には、1944年3月に計画した「回天」、「桜花」、「震洋」と(後になって)呼称される特攻兵器も含まれており、例えば桜花を配備した特攻隊・神雷部隊の編成は、1944年9月に始まっている。つまり、1944年10月の航空特攻の実施以前に、航空機、人間爆弾、人間魚雷など、様々な特別攻撃隊を準備することが決定していたわけである。

海軍として最初の組織的な航空機による特攻作戦を発令したのは、大西瀧治郎海軍中将である。これは1944年10月の台湾沖航空戦の敗北の結果、在フィリピンの大西中将が指揮する第一航空艦隊(一航艦)の稼動機数が僅か零戦40機程度に激減し組織的戦闘が不可能になっていた航空戦力を活用する為である。

本来、一航艦はレイテ沖海戦において突入してくる連合艦隊の艦隊上空の護衛を行い制空権を確保する手筈になっていたが、前述の台湾沖航空戦で受けた大打撃により残存兵力では作戦遂行不可能になっており、この作戦目的を果たすためには敵空母部隊の飛行甲板を一時的にでも使用不能にさせ、敵の圧倒的な航空戦力を麻痺させて、敵航空部隊の空襲を阻止するしかなかった。この、敵空母攻撃をするにしても連合軍との兵力差は圧倒的であり、兵力が無い状態でこれを出来るだけ確実に遂行するには、爆撃機より速度の速い(敵迎撃網を突破しやすい)零式艦上戦闘機に積載上限一杯の250kg爆弾を積んだ上で、操縦者諸共体当たりすることにより命中率を上げることで行うしかなかったのである。大西は生還を全く見込めない戦法を自ら「外道の統率」であると認識していたが、アメリカ機動部隊の航空戦力を一時的に麻痺させることは栗田艦隊のレイテ突入支援に有効な戦法と判断し、実行を命じたのである。

大西は1942年3月に海軍航空本部総務部長に就任して航空機生産に関わっており、部隊指揮からは遠ざかっていた。その彼が1944年10月に、急遽フィリピンにおいて第一航空艦隊の指揮を命じられ、現場に着任直後に特攻隊の編成を命じている。神風特攻隊のように兵力を激減させ、将兵の士気に衝撃を与える作戦を現地司令官である大西が独断で採用する権限はなく、軍令部が定めた特攻作戦を現場で実施に移したものと考えられている。


1945年1月、対空巡洋艦に特攻機が命中した瞬間神風特攻隊の部隊名称も軍令部において編成前から決められていた。1944年10月13日起案の「大海機密第261917番電」は、特攻作戦の都度、攻撃隊名「敷島隊」「大和隊」等をも併せて発表すべきこととされていた。特攻隊の部隊名称が軍令部からの指示で付けられ、戦果発表と同時に大々的に公表する方針が示されている。

特攻機として零式艦上戦闘機(零戦)の機体に250キロ爆弾を固定装備したが、縛ったままで爆発させる為に信管解除装置を改造した。爆弾には落下中の風圧で解除される風車式信管がついていたが、これを機上で解除できるように改造した。現場で兵器を勝手に改修、配備することは許されない[4]ので、やはり軍令部の承諾があったと考えられている。


[編集] 編成
航空特攻は、通常数機の特攻機と護衛の直掩機から編成されていた。直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による突入を見届けた後、帰還して戦果の報告を行った。

特別攻撃隊への参加者は本人の志願の上で司令部が選別する事とされたが、志願者が不足した場合、上官が指名せざるを得ない状況に追い込まれ、半ば強制的に志願させられた隊員もいた。一方で隊員のほぼ全員が「熱望」し(「熱望」・「希望」・「志願せず」から隊員が選択する)、志願者数がオーバーして編成に苦慮した部隊もあり、事情は様々だったようである。

強制は陸軍に多かったとも言われるが、海軍の「第一号」の関行男大尉は志願ではなく(決して命令による強制はしてはならない、と言う事前の上層部の合意があったにも関わらず)上官の指名による事実上の強制であった。一昔前の文献[5][6]では指名されたその場で熟考の後即答したといわれているが、近年の文献[7]では「一晩考えさせてくれ」と即答を避け、悩んだ末に家族を守るため(関は新婚だった)結局受け入れたとされ、食い違いがある[8]。

例え志願者であっても兄弟の居ない者や新婚の者はなるべく選考から外すとされたが、戦局が極度に悪化した沖縄戦後半頃の大量編成時には、その規定が有名無実化した部隊もあった。また大戦末期には、飛行隊そのものが「特攻隊」に編成替えされ[9]、そこから志願者を募ると言う事もなされている。

特攻により戦死した搭乗員は、特別進級[10](特進)の栄誉を受けることが原則[11]であった。この様な進級制度の為、上層部には「どうせ通常攻撃でも戦死する可能性が高いのだから、特攻で確実に戦果をあげさせて特進の栄誉[12]を与える」という考えもあった。特攻隊として全軍に布告された航空部隊(特に、九州沖航空戦時以降の海軍の第一線の実用機による作戦部隊)の搭乗員の戦死者の中には、編成・出撃時には通常攻撃を実施する部隊として扱われたものの、攻撃実施後に特攻隊(特攻戦死)扱いとされる形で全軍布告された事例も少なくない。

戦時中から見られる海兵出身の仕官と予備仕官の間での対立や待遇の差も多くあった[13]。端的な例で言うと海兵出身の関行男大尉の戦果を発表するために、予備仕官の久納好孚中尉の特攻戦死1号の事実が黙殺されたところにも現れている[14]。また特攻編成にさいし海兵出身者は隊長クラスに1名に対し、予備仕官は小隊長もしくは機長と言う低い待遇の運用も多々みられる事を考慮する必要がある(海兵出身の仕官が仮に同人数でもそのような運用がされるか大いに疑問の残る編成も多い)。


[編集] 特攻に反対した指揮官
部隊に打診のあった特攻作戦を撥ね付けて、これが黙認された第343海軍航空隊(343空)の志賀淑雄飛行長[15]の例もある。戦争末期でのこのような事例は珍しい。また、熟練者による夜間通常襲撃の有効性を主張し、特攻を指示する上層部を論破して終戦まで沖縄に夜間襲撃を続けた芙蓉部隊隊長の美濃部正少佐も部下に特攻をさせなかった人間として後世の評価は高い(ただし本人は「代案なければ特攻やむなし」であって特攻の否定はしていない)。玉音放送後も徹底抗戦を唱えて反乱状態となった厚木航空隊第302航空隊の小園安名司令も、特攻には反対していたという。また、『櫻花』(神雷特別攻撃隊)空輸の一式陸攻部隊の部隊長だった野中五郎少佐は、特攻には批判的だったが、自身は特攻作戦で散華することになる。


[編集] 特攻隊員

[編集] 構成人数・比率と戦死者数
殆どの特攻隊員は下士官・兵と学徒動員の士官である。海軍を例にすると下士官・兵は予科練出身であり、部隊編成上、特攻の主軸となった。そして学徒動員の士官とは飛行予備学生出身で、全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。その内飛行予備学生が648名と全体の85%を占めた[16]。これは当時の搭乗員における予備士官の割合をそのまま反映したものといえる。

あ号・捷号・天号作戦期間中の海軍搭乗員の戦死者数を下表[17]に挙げる。比島戦期間中の数字には同時期に行われた501特攻隊・第一御盾隊の戦死者数が含まれる。

階級 あ号作戦期間中の戦死者数 構成比率 捷号作戦期間中の戦死者数(内特攻) 構成比率 天号作戦期間中の戦死者数 構成比率
士官 99名 6.5% 185名(内33名) 9.9% 190名(内52名) 6.6%
予備士官 23名 1.5% 163名(内75名) 8.7% 963名(内507名) 33.6%
特務士官 38名 2.5% 30名 1.6% 55名 1.9%
准士官 115名 7.5% 124名(内10名) 6.6% 67名(内17名) 2.3%
下士官兵 1,257名 82.0% 1,371名(内299名) 73.2% 1,591名(内1,014名) 55.5%
合計 1,532名 100.0% 1,873名 100.0% 2,866名 100.0%

一見してわかるように、顕著に増加したのは天号作戦期間中の予備士官の戦死である。これはこの頃から予備士官の実戦配備が軌道にのり、以後急速に士官の数的主力を占めていく過程と連動している。

下表[17]は昭和20年4月1日現在の海軍航空隊の搭乗員構成比率である。すでに予備士官は士官の5倍近い数に達しており、この後さらに終戦までに海兵出身士官の補充0名に対して予備士官は実に6279名が新たに戦列に加わった。終戦時点で海兵出身士官1034名に対して予備士官は8695名にも及んでおり、全体の9割を占めるに至っていた[16]。

階級 S20.4.1現在数 構成比率
士官 1,269名 5.3%
予備士官 5,944名 25.0%
特務士官 675名 2.8%
准士官 827名 3.5%
下士官兵 15,114名 63.0%
合計 23,829名 100.0%

海軍の特攻戦死者として認定されたのは捷号作戦期間中戦死者数1,873名中419名(22.4%)、天号作戦期間中戦死者数2,866名中1,590名(55.5%)であった。
※ 特攻戦死者数の合計が一致しないのは、資料の差異や後日調査結果の補完などに起因するものと思われる。

2008年05月現在確認されている特攻隊員戦死者数は

海軍
海軍航空特攻隊員:2,531名
特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
回天特攻隊員:104名
震洋特攻隊員:1,081名
合計:4,156名
陸軍
陸軍航空特攻隊員:1,417名
丹羽戦車特攻隊員:9名
陸軍海上挺身隊員(マルレ):263名
合計:1,689名
この他に第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者等の特攻作戦関連戦没者が

第二艦隊戦没者:3,751名
回天部隊関連戦没者:1,083名
震洋部隊関連戦没者:1,446名
陸軍航空関連戦没者:177名
海上挺身隊関連戦没者:1,573名
空挺部隊関連戦没者:100名
その他(終戦時自決・神州不滅特攻隊、大分702空等)戦没者:34名
合計:8,164名
以上合計14,009名を数える[18]


[編集] 「特攻隊」生還者
特攻隊員に指名されるも生還したという例も多い(沖縄戦時の帰投例は全出撃の半数にも上る)。機材故障、体調不良、天候不良、理由を付け出撃を回避、突入直前に撃墜され捕虜となる、出撃日を指定されるもその直前に終戦、等々理由は様々である。戦中の場合、再度特攻の任を受け出撃するケース、特攻の任に耐えずと判断され休養に出されたケース、部隊から排除されたケースもあった。陸軍特攻隊の生還者の一部は福岡市にあった振武寮に送致され再教育が行われた。

戦後、彼等の大多数は一様に心に傷を負いながらも戦後復興・経済発展の為に日本を支え、戦死者の慰霊顕彰にも尽力している。しかし一部の者は社会や価値観の変貌に付いていけず、また彼らを「特攻くずれ」と称して蔑む風潮もあり、敗残兵として冷遇を受け、そのため自暴自棄になり反社会的な行為に走る者も出現した。また特攻と無関係の者が自らを元特攻隊員と偽り、犯罪を行うこともあった。


[編集] 元特攻隊員の著名人
園田直(元内閣官房長官・外務大臣・厚生大臣)
島尾敏雄(作家)
田中六助(元衆議院議員)
西村晃(俳優・2代目水戸黄門)
田英夫(元参議院議員)
黒尾重明(元東急フライヤーズ投手)
信太正道(元航空自衛隊教官並びに全日本空輸機長・反戦団体代表)
反社会的行為を行った人物に天下一家の会の内村健一、元特攻隊員と偽ったとされる犯罪者に3億円保険金殺人事件の荒木虎美、等々がいる。また、自称特攻隊員の有名人としては鶴田浩二がいる。


[編集] 戦法
目標艦艇に突入するためには、まずアメリカ軍の直掩(護衛戦闘機)隊の防空網を掻い潜らなければならず、その次には目標艦艇とその僚艦による対空砲火の弾幕を潜らなければならない。こうした防空網を掻い潜るためには、本来なら最新鋭の機体に訓練を積んだ操縦士を乗せ、敵直掩機を防ぐ戦闘機を含む大部隊が必要であり、さらに無事雷爆撃を成功させるためには十分な訓練による技量が必要であった。しかも戦争後半には、アメリカ軍のVT信管装備の砲弾による対空射撃やレーダー管制による迎撃、優秀な新型戦闘機の投入等が大きな難関となっていった。その為、戦果を挙げるにはその外縁に位置する哨戒用の艦艇、すなわち駆逐艦を狙わざるを得なくなった。こうした事情から、日本軍の攻撃対象は本来狙うべき正規空母や戦艦などの主力艦艇から、駆逐艦や護衛空母などの補助艦艇に移行していった。実際、沖縄戦で特攻機によってアメリカ軍が受けた被害は、輸送船や駆逐艦に集中している。


[編集] 戦闘機による特攻

1945年、九州基地の零戦52型。ベテランで構成されたグラマンの編隊に歯が立たず末期には特攻専用となった主な機体
零式艦上戦闘機
一式戦「隼」
四式戦「疾風」
など

当初は、アメリカ軍の意表をついてそれなりの戦果を挙げる事が出来た。しかし、アメリカ軍は次第に特攻に対する防衛策を整えるようになり、突入体勢に入る前に撃墜されたり、突入しても命中しない例も出てきた。零式艦上戦闘機(零戦)の様な、速度超過を防止する為のダイブブレーキを持たない機体は、突入直前に機体が浮き上がってしまったり、操縦不能になったり、フラッター現象等を起こし空中分解してしまう為、操縦士にはこれを抑制する技量や自制心も必要になった。また突入に成功しても機体強度と運動エネルギーが艦艇の装甲強度を上回れず、艦艇に命中しても機体ごと装甲に弾き返されることもあった。神雷部隊(零戦の新造機を使用した「建武隊」)などの一部の部隊では、突入直前に爆弾を投下する戦術も用いられている。


[編集] 特攻専用機

特攻専用機桜花。ロケットエンジンを搭載し高速を誇ったが、殆どが一式陸攻に搭載された状態で撃墜された主な機体
桜花
剣(実戦未使用)
橘花(試作)
特攻専用機としか見なせない兵器まで計画され、機首部に大型の徹甲爆弾を固定し、爆撃機から投下・滑空の後、操縦士もろとも体当たりする有人誘導爆弾・桜花や、帰還・着陸用の車輪を持たない剣等が作られた。結果的に、これらの兵器は実用化が遅れたり本土決戦に温存されたため、桜花を除いて実戦投入される前に終戦を迎えた。

詳細は桜花・剣・橘花を参照。


[編集] 練習機による特攻
主な機体
九九式高等練習機
二式高等練習機
白菊
九三式中間練習機
など

末期には、本土決戦用に新型機や高性能機を温存させるために、本来戦闘には適さない低性能の機体、陸軍の九九高練、二式高練、海軍の機上作業練習機「白菊」、複葉練習機(いわゆる「赤トンボ」)などの練習機も特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦で特攻作戦に使用された。練習機は、ガソリンを極力温存される為にアルコールを混入した「八〇丙」と言う劣悪な燃料でも飛行可能であったのも投入理由の一つである。実戦機に比べ非力な300馬力から800馬力程度のエンジンを積み、元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していた為、極端に速度が遅く、航続距離も短い複葉機や固定脚を突き出した旧式機で編成した特攻隊は敵機の好餌であり、ほとんど戦果をあげられなかった(当時の米軍の戦闘機は2000馬力級、時速700km級)。レーダーピケット艦に「現在特攻機を追跡中」(「艦艇で追跡出来てしまう程に遅い」という皮肉)という打電をされたという逸話もある。だがまったく使えなかった訳でもなく、古い羽布張りの複葉機などの場合VT信管が作動しなかったり、機関砲弾が命中しても貫通するだけで炸裂しなかったり、また低速で突入艦への狙いが付け易い事等から、僅かながらも戦果を挙げている(九三式中間練習機による特攻は駆逐艦1隻を撃沈している)。


[編集] 爆撃機・その他の機体による特攻
爆撃機・攻撃機 主な機体
九九式双発軽爆撃機
九九式襲撃機
九九式艦上爆撃機
艦上爆撃機「彗星」
九七式艦上攻撃機
陸上爆撃機「銀河」
四式重爆撃機「飛龍」(主に、「ト」号改造機、ならびに、桜弾装備改造機が特攻作戦に使用された)
など

その他 主な機体
百式司令部偵察機
九八式直協機
零式水偵
零式水観
九四式水偵
など

末期は数を揃える為に様々な機体が特攻用に爆弾装備可能に改修され実戦に投入された。


[編集] 燃料・整備
特攻では片道の燃料しか積んでいなかったと言われることもあるが、実際はレーダーを避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。零戦の主任設計者である堀越二郎技師は、戦後に自著で「零戦を爆戦(戦闘爆撃型、52型以降)として運用するために胴体下に爆弾、両翼下に増加燃料タンクを振り分けたが、翼下燃料タンクの投下装置の不具合によって特攻作戦において中止帰投や未帰還となる例があった」としている。アメリカ軍からは、燃料が突入時の火災を大きくする効果があったという評価もある。

整備員達は「片道燃料などという酷いことが出来るか!」と命令を無視して満タンにしたという話も聞かれる。しかし、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、鹿屋からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機によるCAP(戦闘空中哨戒)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえる為に」必要とされた。搭乗員の技量の低下が激しい当時、航法を誤ればあっという間に燃料をムダに消費してしまう訳で、日本側がわざわざ焼夷効果を狙って燃料を増載していた、特攻だから片道燃料としていたという話には疑問が出ている。

特攻隊員たちが憂いなく出発できるように出撃機には可能な限りの整備がなされたとも言われるが、現実問題として日本の工業生産力はすでに限界に達しており、航空機の品質管理が十分ではなかった[19]事や、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投は珍しいことではなかった。


[編集] 戦果と米軍の対応

特攻機が命中し炎上する空母バンカーヒル
2機の特攻機に攻撃された空母バンカーヒル
零戦で空母バンカーヒルに特攻した小川清少尉
[編集] 戦果
特攻機が撃沈したとされる護衛空母は3隻であるが、セント・ローはフィリピン上陸作戦、オマニー・ベイはフィリピン攻防戦、ビスマーク・シーは硫黄島上陸作戦において撃沈されている。空母は特攻作戦の全期間を通じて最重要目標とされたが、その理由は日本軍守備隊への最大の脅威が航空攻撃であったためであり、護衛空母は攻略目標近傍においてCAP(戦闘空中哨戒)を形成し、米地上部隊の援護を行うため特攻機の目標とされた。

アメリカ海軍は沖縄戦において駆逐艦12隻を含む撃沈26隻、損傷164隻の損害を受けており、人的損害は1945年4月から6月末で死者4,907名、負傷者4,824名となっている。特攻の主力艦に対する戦果は、2月21日に海軍第二御盾隊が硫黄島沖において正規空母サラトガに突入、これを大破させ、同艦を終戦まで出撃不能とした。バンカーヒルは5月11日に特攻機2機の突入を受けてブレマートンに帰投を余儀なくされ、エンタープライズも5月14日の特攻機による損傷でピュージェット・サウンド海軍工廠に帰還しており、終戦時は修理中であった。以上、3隻の正規空母を使用不能状態とすることに成功した。

損傷を受けた正規空母は少なくないが、沈んだ艦は1隻もない。その要因として

特攻機の攻撃力は元々かなり低く、一定の装甲防御を有する中型以上の艦艇に対する効果は当初より懸念されていた。桜花のような専用機が開発されたり、大改造を施された飛龍のような事例が生まれたのはこの問題への根本的な対応を図るためである。
アメリカ海軍の正規空母の飛行甲板の装甲防御や、艦内のレイアウト等ダメージコントロールのノウハウが日本軍との戦闘を通じて飛躍的に向上していた。
等が挙げられる。とはいえダメージコントロールや曳航も断念せざるを得ないとの判断が一時的にせよ下されるほどの損害[20]を特攻機が与えた事例もある。

特攻による攻撃隊は、突入機が1隊あたり2機から6機、多くて10機、少ないときは1機という規模の小ささであり、アメリカ海軍からすれば1日の来襲機数は直掩機を含めても空母1隻分の攻撃隊にも満たないものであった。南太平洋海戦までのような反復攻撃を行えていたのであればさらなる戦果拡大も望めたと見られるが、現実には日本軍の戦力は特攻作戦に傾注してなお日に20機も数を揃えることができず、主要艦艇の撃沈のための攻撃を行える水準についに復帰できなかった。

唯一、1945年4月6日の菊水1号作戦発動時に、翌7日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入されたが、襲撃時刻を統一しなかった為に散発的な攻撃となり、突入に成功した機は比較的多かったものの、撃沈できたのは僅か掃海艇1隻のみであった。

米国立公文書館に保管されている米軍機密文書には、米軍が至近自爆を含む特攻機の命中効果率を半年間で56%と算定していた(日本側は特攻初期のフィリピン海域での特攻命中率を26〜28%と推定)[21][22]。また、米軍損害分分析班が1945年4月に行った集計では、特攻作戦が始まった1944年10月から1945年3月までに米艦隊の視界に入った特攻機は計356機で、うち米艦への命中が140機(39%)、至近距離での爆発による被害が59機(17%)だった。半年間の航空特攻作戦で米艦20隻が沈没した(データには視界に入る前に米軍機によって撃墜された特攻機は含まれていない)[23]。他にも特攻機が敵に損害を与えた最終的な確率は諸説あるが、2割弱[24][25][26]との見方が比較的多くなっている。


[編集] 連合軍艦艇の被害
以下は日本軍特攻機によって損傷・戦没した主要な連合軍艦艇である。

戦艦 - いずれも損傷は小破壊程度
ニューヨーク (USS New York, BB-34)
ネバダ (USS Nevada, BB-36)
ニューメキシコ (USS New Mexico, BB-40)
ミシシッピ (USS Mississippi, BB-41)
アイダホ (USS Idaho, BB-42)
テネシー (USS Tennessee, BB-43)
カリフォルニア (USS California, BB-44)
コロラド (USS Colorado, BB-45)
メリーランド (USS Maryland, BB-46)
ウェストバージニア (USS West Virginia, BB-48)
ミズーリ (USS Missouri, BB-63)
航空母艦
サラトガ (USS Saratoga, CV-3)
エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6)
エセックス (USS Essex, CV-9)
イントレピッド (USS Intrepid, CV-11)
レキシントン (USS Lexington, CV-16)
ベローウッド (USS Beleau Wood, CVL-24)
サンガモン (USS Sangamon, CVE-26)
スワニー (USS Suwannee, CVE-27)
サンティー (USS Santee, CVE-29)
セント・ロー (USS St.Lo, CVE-63) - 戦没
オマニー・ベイ (USS Ommany Bay, CVE-79) - 戦没
ビスマーク・シー (USS Bismarck Sea, CVE-95) - 戦没
ヴィクトリアス (HMS Victorious, R38)
フォーミダブル (HMS Formidable, 67)
インドミタブル (HMS Indomitable, 92)
重巡洋艦
ルイビル (USS Louisville, CA-28)
インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35)
駆逐艦
ドーシー (USS Dorsey, DD-117)
ウォード (USS Ward, DD-139)
ブルックス (USS Brooks, DD-232)
バリー (USS Barry, DD-248)
ベルナップ (USS Belknap, DD-251)
マグフォード (USS Mugford, DD-389)
ラルフ・タルボット (USS Ralph Talbot, DD-390)
ウィルソン (USS Willson, DD-408)
ヒューズ (USS Hughes, DD-410)
アンダーソン (USS Anderson, DD-411)
モリス (USS Morris, DD-417)
ハッチンス (USS Hutchins, DD-476) - 本艦はマルレ艇の攻撃により艦首を損傷し後に座礁、放棄された。
プリングル (USS Pringle, DD-477)
ロイツェ (USS Leutze, DD-481)
サッチャー (USS Thahcher, DD-514)
ルース (USS Luce, DD-522)
アブナー・リード (USS Abner Read, DD-526)
ブッシュ (USS Bush, DD-529)
エヴァンズ (USS Evans, DD-552)
ハガード (USS Haggard, DD-555)
モリソン (USS Morrison, DD-560)
ニューカム (USS Newcomb, DD-586)
ツイッグス (USS Twiggs, DD-591)
キャラハン (USS Callaghan, DD-792)
リトル (USS Little, DD-803)
エモンス (USS Emmons, DD-457)
マナート・L・エベール (USS Mannert L. Abele, DD-733) - 本艦は、桜花の体当たりによって撃沈された唯一の艦艇
ドレクスラー (USS Drexler, DD-741)
ハーディング (USS Harding, DD-625)
バトラー (USS Butler, DD-636)
シュブリック (USS Shubrick, DD-639)
他損傷艦多数。補助艦艇の撃沈破された艦は割愛。


[編集] 対応
対空砲火
対空弾幕
射撃管制用レーダー
レーダーピケット
戦闘機による迎撃
VT信管
など


[編集] 対空砲火
下表[27]は米軍が比島戦時に通常攻撃と特攻に対して、対空砲火の有効性を判定したものである。ただしアメリカ側からの判定であり、特攻と通常攻撃が一部混同されている可能性が高いことを付記しておく。
一般に有効とされた5インチVTが特攻に対しては意外に効果を挙げておらず、対して40mmボフォースは通常攻撃より少ない投射弾数で撃墜判定に至っていることがわかる。つまり通常攻撃機は追い払うか攻撃を失敗させれば良いが、特攻機は突入を図ってくるため確実に撃墜しなければならないこと、高角砲のレンジ(射程)では有効な打撃を与えきれずにボフォースのレンジへの突入をしばしば許していることがこの判定結果に現れている(さらに言えば撃墜判定数が少ない場合は小数機に多数の砲が集中されているということであり、結果的に消費弾量が大きく増加している)。
この高角砲の威力不足は深刻な問題とされ、戦後ボフォース4連装がVT付き3インチ両用砲に換装される大きな動機となった。

特攻機の撃墜判定記録
火砲 44.10 44.11 44.12 45.01
5インチ通常 1,479発/機
(1.5機) 1,213発/機
(5機) 493発/機
(9機) 2,675発/機
(3.5機)
5インチVT 242発/機
(6.5機) 324発/機
(6機) 218発/機
(4機) 402発/機
(8機)
3インチ通常 59発/機
(1.5機) 392発/機
(1機) 戦果なし 986発/機
(4機)
40mmボフォース 2,201発/機
(23.5機) 2,408発/機
(27機) 1,003発/機
(33機) 3,576発/機
(30.5機)
28mm機銃 戦果なし 戦果なし 戦果なし 2,170発/機
(1機)
20mm機銃 9,983発/機
(11機) 8,755発/機
(13機) 3,933発/機
(23.5機) 16,313発/機
(15機)
12.7mm機銃 戦果なし 戦果なし 24,942発/機
(0.5機) 17,402発/機
(2機)

通常攻撃機の撃墜判定記録
火砲 44.10 44.11 44.12 45.01
5インチ通常 748発/機
(23機) 2,601発/機
(1.5機) 795発/機
(5機) 1,765発/機
(4機)
5インチVT 65発/機
(9.5機) 798発/機
(1機) 179発/機
(6.5機) 1,083発/機
(3機)
3インチ通常 294発/機
(4機) 戦果なし 戦果なし 戦果なし
40mmボフォース 3,672発/機
(23機) 1,249発/機
(6.5機) 2,151発/機
(9.5機) 5,633発/機
(7.5機)
28mm機銃 戦果なし 戦果なし 戦果なし 戦果なし
20mm機銃 7,802発/機
(27機) 3,156発/機
(5.5機) 6,729発/機
(8機) 7,935発/機
(10機)
12.7mm機銃 39,986発/機
(0.5機) 875発/機
(1機) 戦果なし 9,929発/機
(1.5機)


[編集] 特攻に類似する攻撃
上記の様な航空機を使用した対水上艦艇に対する特攻の他に、敵に対し生還を期すことなく攻撃を行う戦法が俗に「特攻」と呼ばれることがある。

航空機のみならず、小型舟艇(震洋)や陸軍の海上特攻艇(まるれ)、有人操縦の魚雷(回天)、有人誘導爆弾(桜花)、小型潜航艇(海竜)も開発されている。その他にも真珠湾攻撃の際有名になった特殊潜航艇甲標的の改造艦蛟龍も建造された。また、実戦には投入されなかったが、潜水して棒の先につけた爆薬で上陸しようとする舟艇を攻撃する潜水具(伏龍)も試作された。

他にも占領された飛行場に強行着陸ののち、搭乗した兵員が駐機中の敵機を攻撃し使い物にならなくしようとする「義烈空挺隊」やフィリピン戦末期に行われた台湾高砂族によって編成された「薫空挺隊」を使用した「義号作戦」、高千穂降下部隊を使用した「テ号作戦」の3つを行なった空挺特攻がある。


[編集] 水上特攻
第2艦隊(司令長官:伊藤整一中将)の「大和」以下の艦艇による沖縄水上特攻(坊ノ岬沖海戦)では、片道燃料での出撃を命じられていた。具体的には軍令部より2,000トンの重油が割り当てられ、連合艦隊もこれを了承、軍令部第一部長の富岡少将は連合艦隊参謀副長の高田少将にこれを厳守するよう命じている。4月の時点で海軍の重油在庫は5万トンを切っており、南方航路が途絶し、各種資源、食料を日本に供給する最後の砦とも言える朝鮮、満州との日本海航路を護衛しようとすれば、月に7,000トンの重油が最低限必要と海上護衛総隊が要求している状況下では当然の帰結であった。もっとも2,000トンだから片道と言う訳ではなく、戦闘行動を行いながらでも何とか1往復は出来る量であった。

しかし連合艦隊の現場側は「はらぺこ特攻」など容認せず(参加駆逐艦長は「死にに行くのに腹いっぱい食わさないという法があるか!」と叫んだと言う)、呉鎮守府補給担当、徳山燃料廠まで巻き込み、責任追及を受けた場合には「命令伝達の不徹底であり過積載分は後日回収予定であったが果たせなかった」との口裏合わせまで行って燃料を補給した。結果、第一遊撃部隊(第2艦隊の所属艦から可動艦で編成)はタンクの底の通常は計量しない帳簿外の重油まで搭載しており、大和は満載6,300トンのところを4,000トン(約63%)、矢矧は満載1,400トンのところを1,300トン(約93%)、駆逐艦以下は満載で総計1万トン以上、当初予定の5倍の燃料が搭載された。基準速力の16ノットであれば4往復から5往復、燃料消費が5倍に達する全速を出しつづけても往復出来るだけの量であったが、日本の航路護衛はこの時点で破綻したとも言える[28]。


[編集] 防空戦
大戦末期になってB-29による日本本土への爆撃が開始されると、これに対する迎撃戦闘が行われるようになった。本土防空に活躍した代表的な戦闘機として、海軍の雷電・月光・紫電・紫電改、陸軍の鍾馗・屠龍・飛燕・疾風・五式戦闘機などが挙げられるが、排気タービン(ターボチャージャー)の様な高空での発動機性能を発揮させる技術を実用化出来なかった為に、高々度性能に劣る日本機ではB-29と同高度(高度10,000m以上)に達することすら難しく、同高度に達しても十分な機体性能は発揮出来なかった。しかもB-29の高い防弾性や厚い編隊防御弾幕、戦闘機並みの高速に手を焼き、迎撃は困難を極めた。高高度迎撃機は開戦後しばらくしてからようやく陸海軍で開発が始まったが、基礎工業力の乏しさに起因する技術力不足(特に発動機開発能力)は最後まで響き、結局終戦までまともな迎撃機は完成しなかった[29]。次善の策として陸海軍は百式司偵や彩雲のような高高度性能の比較的良い偵察機や銀河(極光)、彗星のような爆撃機に斜銃を付けて夜間戦闘機として迎撃に当たらせたり、四式重爆"飛龍"の改造機(キ-109)に高射砲を積んで飛ばすなどしたが、ほとんど効果はなかった。

本土防空戦での特攻と言える攻撃は神風特攻隊誕生よりも2ヶ月程前、昭和19年8月20日のB-29の北九州爆撃の際に通常迎撃に出た陸軍第19飛行師団飛行第4戦隊所属の屠龍搭乗の野辺重夫兵曹(同乗:高木伝蔵兵長)が「野辺、体当たり敢行!」と無線で訣別電を発した直後にB-29へ体当たりをして2機(1機は巻添え)撃墜したのが最初と言えるだろう。

陸軍は本土上空を護るための十分な能力を持つ高高度迎撃機が日本に当時存在しなかった為、体当たりをしてでも防ごうと、武装、防弾装備や通信アンテナすらも一切取り払った「無抵抗機」と称した機体を仕立て、これによってB-29に体当たりする迎撃部隊を発案した。最初に組織化されたのは昭和19年11月7日、首都防空部隊であった陸軍第10飛行師団の隷下部隊に対し師団長吉田喜八郎少将から、1部隊につき各4機ずつ体当たり機の編成命令が発令された時である。この後、大都市圏の防空任務部隊を中心に空対空特攻部隊が組織されていくこととなる。

初出撃は同年11月24日、サイパン島より東京に初来襲したB-29に対するものであった。この戦闘で第47戦隊所属の見田義雄伍長が屠龍で体当たりを敢行し1機を撃墜して戦死。同じく第53戦隊入山稔伍長は突入間際に機体が空中分解、戦死した。

こう言った戦死が相次ぐ一方で、2回体当たりして2回とも生き残り、遂には沖縄艦船特攻で戦死した飛行第244戦隊の四之宮徹中尉や、同じくB-29に2回体当たりを敢行して生還した中野松美伍長[30]のような例もあり、搭乗員は落下傘降下やもしくは損傷した機体で生還出来る可能性があった為、対艦船特攻の様に100%死を覚悟しなければならないものではなかったが、死亡率は極めて高く、やはり特攻であることに変わりは無かった。なお、これらの特攻は衆人環視の中で行なわれたものであった為、戦果の翌日は写真付で新聞紙面を飾ることが少なくなかった(参照:震天制空隊、飛行第244戦隊)。実際、衆人環視の中で落下傘が開かず墜死する操縦士を見たという証言は多く、そのうち何人かは宮城(皇居)に向かって敬礼しつつ墜ちていったと伝えられている。

海軍も空対空特攻隊は組織としては結成しなかったものの、自発的な特攻は相次いだ。陸軍体当たり部隊の初出撃に先駆けること3日前の昭和19年11月21日、海軍352空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、北九州上空でB-29に体当たりして撃墜、戦死している。

だが、一部では1機で2機を体当たり撃墜したような戦果もあったものの、全体的に見ると重防御を誇るB-29は2機の体当たりを受けても生還出来た機体があったように、総合的な戦果はあまり芳しくなかった。B-29の日本本土爆撃において1回の攻撃あたりの最大の損失率は15.9%、平均1.38%であったと言われる。機数での数字としては延べ約33,000機の出撃に対し戦闘での喪失機数は450機であった。勿論この数字は特攻だけでなく、昼間戦闘機、夜間戦闘機、高射砲の戦果も含んだ数であり、対敵飛行機特攻のみの戦果はかなり低くなる。そして昭和19年6月15日の北九州初空襲以来、終戦までにB-29によって本土に落とされた爆弾は14万7,000トン[31]にのぼると言われている。

結局こうした苦心の策も、硫黄島を占領され、B-29がP-51ムスタングを初めとする優秀な最新鋭戦闘機を護衛に引き連れてくるようになると、通用しなくなっていった。また空母艦載機群が本土空襲を始め、日本本土の各航空基地に来襲するようになると、無抵抗機や夜戦は絶好の餌食となり次々と撃墜、地上撃破されていった。しかし、その様な状況の中でも僅かながら戦果を挙げている[32]。


[編集] 陸上戦
日中戦争以降、日本陸軍では97式中戦車に対戦車地雷を取り付けて敵戦車に体当たりする戦法や、歩兵が爆弾を抱えて敵戦車に体当たりする戦法が行われることが多数あった。このような戦法を採らざるを得なかったのは、陸軍に対戦車火器が不足していたからである。砲や砲弾の製造技術が低かったこと、成形炸薬弾や携行射出装置(他国では米国のバズーカやドイツのパンツァーファウストとして大戦中に使用)への注目の遅れ、全体的な生産力や先見性の欠如などから対戦車火器の欠乏は絶望的であり、歩兵連隊がM4やT-34などの連合軍戦車を正面から撃破する事はほぼ不可能だった。火力の不足は血で贖われ、効果の薄い挺身肉薄攻撃で多くの将兵が命を落とした。追い詰められた日本軍はさらに生還の可能性が無い自殺攻撃に手を染めるようになる。沖縄戦では本来軍が守るべき民間人(学生)を現地徴用した鉄血勤皇隊に地雷や爆薬を抱えて戦車に体当たりする戦法を行わせることまでしている。 満州に展開していた関東軍では、ソ連軍の侵攻に備えて肉攻(特攻)班が編制された。これは国境線上に掘った蛸壷に隠れた二人一組の兵士が二人がかりで野砲の15センチ榴弾を抱え、先端の信管をソ連軍戦車にぶつけて破壊しようという戦法であった。実際に戦果がどの程度あったかは不明である。


[編集] ドイツ空軍の事例
連合軍の爆撃機に戦闘機が体当たりするという戦法はドイツでも行われ、エルベ特攻隊と呼ばれた。機体はメッサーシュミットBf109とフォッケウルフFw190で、機関銃の銃弾を減らし、これを撃ちながら敵機めがけて一直線に突進した。1945年4月7日に推定189機が出撃したが、必ず体当たりすることを要求されたのではなく、「敵重爆の直前で射撃し、各自1機は撃墜すること。必要とあれば激突せよ」と命じられていた。彼らは無線で流されるドイツ国歌を聞きながら突撃したと言う。しかし、P-51を始めとする多数の護衛戦闘機群に阻まれ、出撃機の大半とパイロットの約半数を失い、8機の爆撃機を撃墜したに留まった。この為、戦果が少ないとしてこの戦法はすぐに中止された。

この他、「ミステル(宿り木)」と呼ばれる機体があった。これはいわゆる親子飛行機で、子機はユンカースJu88爆撃機を改造して爆薬と無線操縦装置を取り付け、機体の上部に連結器を装備して親機の Bf109 を乗せたものである。目標上空で切り離し、親機が子機を誘導して目標に体当たりさせる仕組みになっていた。無論子機は無人であり、言うなれば大型のミサイルである。

ミステルは若干ながら戦果を挙げ、更なる組み合わせとして親機にFw190を使用した型も生産された。しかし、速度の遅いミステルは通常の爆撃機以上に敵戦闘機の好餌であり、間もなく敵目標に対する攻撃は中止され、敵の進撃経路に当たる橋梁や道路を爆破するのに使用されたという。


[編集] 評価

特攻隊勇士之像(靖国神社)
[編集] 日本での評価
戦時中は「一億特攻の先駆け」と肯定的に評価され、本土決戦では全国民が範となすように求められた。

戦後の評価は一転する。左派、保守派も総じて特攻作戦は否定的に評価する。しかし、作戦自体には否定的意見でも、「特攻隊員も戦争の犠牲者」との意見は左派でも強かった。これは特攻隊員の多くが学徒兵などインテリ層で、自己の死の意味に苦悩する姿にシンパシーを感じる者が多かったからと見られる。これに対し、右翼、暴力団、暴走族を中心に「大和魂の権化」、「日本人の鑑」と特攻作戦を含めて肯定する評価もあり、彼らは特攻隊にあやかった団体名称を好んだり、自らの服装を特攻隊に結びつけたりした。

特攻隊出身者の多くは自嘲的な評価をした。「君らだけを行かせはしない。」と隊員に語っていた陸軍特攻隊創設者の富永恭次は、多くの部下を戦地に残したまま敵前逃亡して生き延びた[33][34]。 その一方で、特攻に多くの若者を送り出した責任をとり、終戦直後に割腹自決した大西瀧治郎や、その行動評価は賛否両論に分かれるが終戦の玉音放送後に沖縄の米軍に対して部下11機を連れて自ら特攻を行った海軍の宇垣纒中将のような将官もいた。尚、大西に関しては戦後彼を知る複数の人間が口を揃えて「もし、特攻によって戦争に勝っていたとしても、彼は自決していただろう」と証言している。しかし、源田実、菅原道大らを始めとする特攻に関わった殆どの将官、特に現場指揮官や参謀など実際に特攻隊員たちを直接送り出した高級幕僚達は何事も無く終戦を迎え、責任も取らずに戦後の民主主義社会で生活を営み、特攻に関しては口を噤んだまま人生を終えていった。


[編集] 日本国外での評価
精神的な側面よりも、物質的(合理的)な側面を重視する欧米諸国、特にアメリカでは、特攻隊の攻撃方法は"クレイジー"と評された。一方でスプルーアンス提督は効果がきわめて高いと分析していた[35]。負傷もしくは機体の損傷によって死が避けられないならば、敵に損害を与える可能性が高い体当たりの方が合理的だということである。アメリカでは特別攻撃隊の報道はアメリカ軍兵士の戦意喪失を招き、銃後の家族に不安を与えるとして規制され、後に一括して報道された。しかしその報道はルーズベルト大統領の死と重なったために、国内での衝撃はほとんど無かったともいう。

ただし、戦場においては、キリスト教的思考(自殺が禁じられている)では理解不能な攻撃に対し、恐怖でノイローゼに陥る兵士もいた[22]。あるアメリカ海軍空母機搭乗員は「私達はカミカゼ(神風)が怖かった。10人のうち7人は涙を持って迎え、後の3人は憎しみをもってこれを撃ち落した」と証言している[6][36]。

また、フランス人記者のベルナール・ミローは、著書『神風』の中で、「散華した若者達の命は・・・無益であった。しかしこれら日本の英雄達はこの世界の純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた」と述べ評価している。且つ「西洋文明においてあらかじめ熟慮された計画的な死と言うものは決して思いもつかぬことであり、我々の生活信条、道徳、思想と言ったものと全く正反対のものであって西欧人にとって受け入れがたいものである」とも述べている。この理解不能性、恐怖や不安は、アメリカをして日本本土への無差別爆撃の強化や原爆投下を促す一因になったとも言われる。

戦後も、アメリカを始めとする諸外国における大方の評価は“クレージーな作戦”もしくは“戦法と呼べぬ戦法”であったと言う全否定的なものである。この評価の根底には、永年に渡って養成してきた貴重な人命を無駄に消耗させ、しかも数少ない貴重な資源や兵器を消耗させるだけであったことや、戦争指導者達が先の見通しを持たず、ただ流れに任せて無責任に命令を発していたことが多かったということが大きく作用している。また、特攻隊員に対しても「狂信的な国家主義に洗脳された」という、どちらかといえば否定的な見方が一般的であったが、実際に彼らと戦った多くの退役軍人は敬意を表している。米軍パイロットに「もし特攻隊があったら志願するか」とアンケートしたところ、かなりの割合で「志願する」という答えが返ってきたともいう(もちろん、仮定の問いなので単純に日本の特攻隊員と比較はできない)。


[編集] 自爆テロと特攻の違い
2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件が発生する。欧米のマスコミの中には世界貿易センタービルに突入するハイジャックされた航空機を「カミカゼ」、「パールハーバーと同じだまし討ち」と表現するものもあった。これは「生還を考えない体当たり戦法」から、「カミカゼ(=旧日本軍の特攻隊)の様だ」と報道されたものである。

これに対して日本国内では保守主義者を中心に反発が起き、特攻隊を肯定的に評価する声が挙がり始めた。「確かに物理的には失敗したかもしれないが、アメリカ軍を畏怖させたと言う精神面においては成功している」「戦果はどうあれ、隊員らの愛国精神を見習うべきだ」と言うのが代表的なものである。また日本の世論も、自爆テロはあくまで非合法な犯罪者による「非戦闘員(=民間人)」を巻き込むことを厭わないテロ行為であり、戦時国際法でその身分が保障される正規軍の軍人が実施した敵戦闘員を対象にした軍事作戦である特攻とは本質的に異なる、との意見が主流である。

しかし、日本国外では「テロ」が反米勢力へのレッテル化していることへの議論、2000年10月12日に発生したミサイル駆逐艦コールへの自爆攻撃等、武装組織が正規軍へ行った場合の評価などが曖昧で、国際的な議論、再評価を巻き起こすには至っていない。また、戦時国際法では武装勢力(含むテロ組織)は正規軍に準じる存在と位置づけられ、戦闘員の身分は基本的に保証されている。ただし、民間人に対する武力行使は厳格に禁止され、罰則対象になっているが、一部国家の正規軍ではこの条項は空文化している(代表的なところでは米軍の原爆投下や無差別絨毯爆撃、イスラエル軍の入植地攻撃、ロシアのアフガン、チェチェン侵攻など)といえ、この辺りもテロ行為と特攻の線引きを難しくしている。


[編集] 北朝鮮の特攻計画神話
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の朝鮮人民軍空軍では、朝鮮戦争期のMiG-15を現在でも多数保有しているが、これは同軍の他の戦闘機や韓国空軍戦闘機と比べて著しく時代遅れであり、現代の戦闘に用いるのには戦闘能力も航続距離も不足している。この様な機体を依然として多数維持している理由として、練習機や標的機、無人機、随伴機として試験や訓練用途に使用していることなどが考えられるが、一説には、同軍は韓国及び日本への特攻にMiG-15を使用することを考えていると言われている。同軍は14万人の特攻兵力を有していると言う説もあるが、これは空軍の総兵力を大きく上回る上に、MiG-15の総生産機数(ライセンス生産を含め、世界で15,000機)を考えるまでもなく、それ程多くの要員に行き渡るだけの特攻用作戦機を北朝鮮一国で保有しているとは到底考えられない。60年前の機体はもはや部品の調達も困難で特攻用の稼動状態に維持することも無理であることから、複座の練習機(MiG-15UTI)など一部の保有機を除く殆どが、部品取りもしくは米軍を欺くためのデコイ、または空軍の保有機数を政治的理由で水増しするために利用されていると考えられている。


[編集] 特別攻撃隊を描いた作品
『きけわだつみのこえ』 (遺書集)
『雲ながるる果てに』
『あゝ特別攻撃隊』
『海軍兵学校物語 あゝ江田島』
『最後の特攻隊』
『あゝ決戦航空隊』
『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』
『THE WINDS OF GOD』(舞台)
『WINDS OF GOD』(映画)
『零のかなたへ〜THE WINDS OF GOD〜』(テレビドラマ)
『特攻へのレクイエム』
『君を忘れない』(映画)
『月光の夏』(映画)
『ホタル』(映画)
『きけ!わだつみの声』 (映画)
『すみれ島』(絵本)
『指揮官たちの特攻 〜幸福は花びらのごとく』
『俺は、君のためにこそ死ににいく』(映画)
『雲の墓標』(小説)
『Alas de Hierro 〜虚空に散った若き戦士達への鎮魂歌〜』(吹奏楽)
『前世』〜魂揺れし(小説)
『あゝ零戦』(映画)
『特攻の島』佐藤秀峰
『陸軍特別攻撃隊 第一巻〜第三巻』(高木俊朗)

[編集] 脚注
^ 「図説 帝国海軍特殊潜航艇全史」(奥本剛)などより
^ この号の神風特別攻撃隊出撃の映像は、この模様を撮った稲垣浩邦の記録によれば10月25日ではなく、10月21日に撮影されたものである
^ この決死の攻撃は成功せず、結局魚雷1本が命中した。この件に関しては事実は体当たりではなく、魚雷を知らせる為に離陸直後に急激な操作を行った為の墜落という説もある。
^ 当時の考え方では軍の兵器は大元帥である天皇の所有物であり、臣民である兵士がそれを勝手に弄ることは禁忌とされていた。これは航空機などに限らず、三八式歩兵銃なども同じ扱いであったが、一方で「役に立たない」と判断した前線の戦闘機パイロット達が軽量化のために無線装備やアンテナを下ろした事例もある。
^ 神風 > 最初の特攻 > 最初の特攻 隊長関行男大尉より
^ a b 中島正/猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』 ISBN 4-7928-0210-5
^ (当時)副司令玉井浅一副長による戦後の証言より
^ 関は元々艦上爆撃機パイロットであったが、この作戦の直前に急遽戦闘機パイロットとして一航艦に異動になっており、意図的に第一号にされたのではないかという説もある。
^ 『白菊特攻隊 還らざる若鷲たちへの鎮魂譜』 ISBN 4-7698-2363-0
^ 兵→飛行兵曹長・下士官→少尉、士官→二階級
^ 部隊間で徹底されていなかった為、例えば、同部隊で出撃した搭乗員でも「進撃中に迎撃機に攻撃されている事を基地に無線連絡後に未帰還」は戦果無しとし通常の戦死者の1階級特進留まり、「進撃中に消息不明で未帰還」は戦果を挙げたものと認め特攻による特進が認められる、というような矛盾も見られた。またこの様な例も出撃した時期によって様々であった。
^ 遺族に支給される軍人恩給の金額は階級により差があった。
^ 予備学生のつぶやき(4)大村航空隊元山分遣隊1より
^ “そもそも戦果が確認されていないために手続きが後回しになった結果”との見方もある。
^ 真珠湾攻撃時、航空母艦加賀の戦闘機隊長
^ a b 『海軍飛行科予備学生・生徒史』より
^ a b 『戦史叢書95 海軍航空概史』付表より
^ 『特別攻撃隊全史』(特攻隊慰霊顕彰会)より
^ 工場生産における品質管理の思想が日本に入るのは戦後の朝鮮特需の時であり、この当時は量産品に関しては生産量優先で品質は全く考慮されていない。例としては層流翼を採用した紫電の完成機は、工作不良による左右の主翼揚力や主翼取付け角の不均衡により真っ直ぐ飛ばない機体の方が多かったと言われる
^ 例えば45年3月19日の九州沖航空戦時の空母フランクリン(これは、日本海軍機の急降下奇襲爆撃による被害であるが)では、戦死だけで739名というダメージコントロールにあたる人員そのものが大量に失われた
^ Yahoo!ニュース時事通信2006年11月15日「旧日本軍の航空特攻作戦、命中効果率は56%=予想以上の戦果−米軍機密文書」(参考資料[1][2])より
^ a b 原勝洋『写真が語る「特攻」伝説』ベストセラーズ ISBN 9784584189795
^ 神戸新聞 2006年11月15日(時事通信 後半部分:参考資料)より
^ 東海大学教養学部人間環境学科 鳥飼行博研究室 Torikai Lab Network「カミカゼ特攻機命中率56%の虚構」より
^ 小沢郁郎『つらい真実─虚構の特攻隊神話』ISBN 978-4-88621-014-2
^ 特集「神風特別攻撃隊」特攻による戦果より
^ 『NAVAL WEAPONS OF WORLD WAR TWO』(Conway)より
^ 大井篤『海上護衛戦』 ISBN 978-4059010401
^ 仮想戦記によく登場する前翼機"震電"は試験飛行中に終戦、ロケット機"秋水"はエンジンを開発中に終戦、もっとも完成に近かった"キ102甲"も排気タービンの問題を解決中に終戦を迎え、生産数は先行量産機15機のみに終わった
^ うち1回は、1機のB-29の水平尾翼を自機のプロペラでかじり取った後、そのまま、そのB-29の背面に馬乗りになった状態で飛行し、そのB-29が失速して高度を下げ始めた直後に、体当たり時に損傷を受けた機体を巧みに操縦して東京郊外の農地に不時着した。終戦時は軍曹。現在も健在
^ 単純に全てをTNT火薬だとすると広島型原爆約10発分の威力
^ 一例として、1945年5月29日飛行第5戦隊が静岡県榛原町上空にて横浜へ爆撃(横浜大空襲)に向かうB29の大編隊に対して屠龍にて体当たり攻撃を行い、一機撃墜し散華した河田清治(本名:盧龍愚)少尉がいる(参考資料:[3]・[4](インターネット・アーカイブ)・『内なる祖国へ』ISBN 978-4-562-03873-2)
^ その後、 配置転換され満州の敦化に赴き、その地で終戦を迎えた後、ハバロフスク収容所に抑留され、1955年4月18日に引揚船で帰国した(富永恭次#敵前逃亡より)。
^ 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』1/2/3(文春文庫、1986年) 1 ISBN 4-16-715104-9、2 ISBN 4-16-715105-7、3 ISBN 4-16-715106-5
^ 神風 > 外国人から見た"KAMIKAZE" > 特攻に対する米軍報告(「ドキュメント神風」)より
^ 神風 > 外国人から見た"KAMIKAZE" > 米軍横須賀基地所属の搭乗員より

[編集] 参考文献
NHK取材班編 『太平洋戦争 日本の敗因3 電子兵器 カミカゼを制す』 角川文庫 ISBN 4041954142
草柳大蔵『特攻の思想 大西滝治郎伝』 文芸春秋 文春文庫 ISBN 4167315017
森山康平、太平洋戦争研究会 編『図説 特攻』(ふくろうの本 太平洋戦争の戦場) 河出書房新社 ISBN 4309760341
北影雄幸『特攻の本 これだけは読んでおきたい』 光人社 ISBN 476981271X
原 勝洋『真相・カミカゼ特攻 必死必中の300日』 KKベストセラーズ ISBN 4584187991
鈴木勘次『特攻からの生還 知られざる特攻隊員の記録』 光人社 ISBN 4769812337
宮本雅史『「特攻」と遺族の戦後』 角川書店 ISBN 4048839136
保阪正康『「特攻」と日本人』 講談社現代新書 講談社 ISBN 4061497979
保阪正康『『きけわだつみのこえ』の戦後史』 文春文庫 文藝春秋 ISBN 4167494051
日本戦没学生記念会、わだつみ会 編『新版 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』 岩波書店 岩波文庫 ISBN 4003315715
日本戦没学生記念会 編『きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記〈第2集〉』 岩波書店 岩波文庫 ISBN 4003315723
海軍飛行予備学生第十四期会 編『あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記』 光人社 ISBN 4769807139
高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』 1~3 文芸春秋 文春文庫 1 ISBN 4167151049、2 ISBN 4167151057、3 ISBN 4167151065
高木俊朗『特攻基地知覧』 角川書店 角川文庫 ISBN 4041345014
佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』 光人社 ISBN 4769808291
知覧高女なでしこ会『群青 知覧特攻基地より』 高城書房出版 ISBN 4924752622
ロバート・C・ミケシュ「破壊された日本機」三樹書房

[編集] 関連項目
ウィキメディア・コモンズには、特別攻撃隊 に関連するカテゴリがあります。特攻兵器 - 桜花 - 回天
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