【連載】花言葉は「生きなさい」 特攻花の物語<2>再会 終戦が2日早ければ
【連載】花言葉は「生きなさい」 特攻花の物語<2>再会 終戦が2日早ければ
2008年08月12日 15:57
鶴岡ヤエさんが自宅近くを案内してくれた。「昔、この辺りに兵舎があったんです」 鹿児島県・喜界島で暮らす鶴岡ヤエさん(84)に昨年秋、1本の電話がかかってきた。「私、星野實(みのる)のおいです。おじがお世話になったそうで」。星野ミノル。この六十余年、忘れたことのない名前だった。8月15日の終戦記念日が巡り来るたびに思った。「あと2日早かったら…」
* *
1945年6月、喜界島は連日の空襲に見舞われた。21歳だった鶴岡さんが、5人の若い兵士と知り合ったのはそのころだ。彼らは兵舎の残飯を「家畜の餌に」と持ってきてくれ、飼育も手伝ってくれた。時には、鶴岡さんの家で食卓を囲むこともあった。
彼らは任務も名前も明かさなかったが、小柄で一番笑顔が優しい隊員の名は「星野ミノル」だと分かった。いつも持ち歩いていた棒切れに彫ってあったからだ。「京都は水車(みずぐるま)を足で押して米をつくんや」と故郷を懐かしんだ。めいが星野さん手製のベルトをもらったお礼に、鶴岡さんが手編みのお守り袋を贈ると、「死ぬ覚悟はできてるんや」と言った。
喜界空港のそばに咲く特攻花(テンニンギク) 5人が搭乗服と白いマフラー姿でやって来たのは8月13日の夕方だった。最後の食卓に笑顔はなかった。星野さんは「うまくいったら、線香の1本でもあげてや」と言い遺(のこ)して去った。夜、ゼロ戦が家の上空を旋回して、南の空に消えた。2日後、日本は負けた。
* *
鹿児島県鹿屋市の海上自衛隊鹿屋航空基地に併設された史料館に「星野實1等飛行兵曹」の記録が残っている。
海軍甲種飛行予科練習生(予科練)出身の星野さんは、45年6月10日に鹿屋から喜界島へ移動。8月13日午後6時、第二神雷(じんらい)爆戦隊として、500キロ爆弾を積んだゼロ戦で出撃、学徒出陣だった中尉と沖縄海域に向かった。機上からの最後の電信は午後7時50分。「我敵空母に必中突入中」。まだ19歳の若さだった。
15日付のある新聞は南西諸島基地特電として「沖縄で空母に2機突入」と報じたが、米側資料によるとその時間帯、沖縄近海では輸送艦の損傷しか確認されていない。真相は今も分からない。
当時、喜界島で整備兵だった近藤宗男さん(82)=愛媛県松山市=によると、この日は5機が出撃し、3機が油漏れなどで引き返してきた。「2日後が終戦と知っていたら、何が何でも止めた」。後悔ともつかない感情が今もあるという。
* *
鶴岡さん宅に電話をかけてきたのは、星野實さんの兄の長男、澄夫さん(59)だった。実家の農業を継いでいるといい、「今は水車じゃなくて電動ですよ」と笑った。
鶴岡さんの存在を澄夫さんに教えてくれたのは、大阪市のカメラマン仲田千穂さん(26)が05年に出した写真集「特攻花」に関する地方新聞の記事だった。「星野ミノル」の思い出を語る鶴岡さんが登場していたのだ。
「一度京都においでください」と澄夫さんは電話を切った。もう年だし、おそらくそれはかなわない。星野さんが最後に踏んだ島の土の上に芽吹いた特攻花(テンニンギク)が、再びつないでくれた不思議な縁。「星野さんの最後の日々を、やっとご遺族に報告できました」と鶴岡さんは穏やかに語った。
=2008/08/12付 西日本新聞朝刊=
2008年08月12日 15:57
鶴岡ヤエさんが自宅近くを案内してくれた。「昔、この辺りに兵舎があったんです」 鹿児島県・喜界島で暮らす鶴岡ヤエさん(84)に昨年秋、1本の電話がかかってきた。「私、星野實(みのる)のおいです。おじがお世話になったそうで」。星野ミノル。この六十余年、忘れたことのない名前だった。8月15日の終戦記念日が巡り来るたびに思った。「あと2日早かったら…」
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1945年6月、喜界島は連日の空襲に見舞われた。21歳だった鶴岡さんが、5人の若い兵士と知り合ったのはそのころだ。彼らは兵舎の残飯を「家畜の餌に」と持ってきてくれ、飼育も手伝ってくれた。時には、鶴岡さんの家で食卓を囲むこともあった。
彼らは任務も名前も明かさなかったが、小柄で一番笑顔が優しい隊員の名は「星野ミノル」だと分かった。いつも持ち歩いていた棒切れに彫ってあったからだ。「京都は水車(みずぐるま)を足で押して米をつくんや」と故郷を懐かしんだ。めいが星野さん手製のベルトをもらったお礼に、鶴岡さんが手編みのお守り袋を贈ると、「死ぬ覚悟はできてるんや」と言った。
喜界空港のそばに咲く特攻花(テンニンギク) 5人が搭乗服と白いマフラー姿でやって来たのは8月13日の夕方だった。最後の食卓に笑顔はなかった。星野さんは「うまくいったら、線香の1本でもあげてや」と言い遺(のこ)して去った。夜、ゼロ戦が家の上空を旋回して、南の空に消えた。2日後、日本は負けた。
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鹿児島県鹿屋市の海上自衛隊鹿屋航空基地に併設された史料館に「星野實1等飛行兵曹」の記録が残っている。
海軍甲種飛行予科練習生(予科練)出身の星野さんは、45年6月10日に鹿屋から喜界島へ移動。8月13日午後6時、第二神雷(じんらい)爆戦隊として、500キロ爆弾を積んだゼロ戦で出撃、学徒出陣だった中尉と沖縄海域に向かった。機上からの最後の電信は午後7時50分。「我敵空母に必中突入中」。まだ19歳の若さだった。
15日付のある新聞は南西諸島基地特電として「沖縄で空母に2機突入」と報じたが、米側資料によるとその時間帯、沖縄近海では輸送艦の損傷しか確認されていない。真相は今も分からない。
当時、喜界島で整備兵だった近藤宗男さん(82)=愛媛県松山市=によると、この日は5機が出撃し、3機が油漏れなどで引き返してきた。「2日後が終戦と知っていたら、何が何でも止めた」。後悔ともつかない感情が今もあるという。
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鶴岡さん宅に電話をかけてきたのは、星野實さんの兄の長男、澄夫さん(59)だった。実家の農業を継いでいるといい、「今は水車じゃなくて電動ですよ」と笑った。
鶴岡さんの存在を澄夫さんに教えてくれたのは、大阪市のカメラマン仲田千穂さん(26)が05年に出した写真集「特攻花」に関する地方新聞の記事だった。「星野ミノル」の思い出を語る鶴岡さんが登場していたのだ。
「一度京都においでください」と澄夫さんは電話を切った。もう年だし、おそらくそれはかなわない。星野さんが最後に踏んだ島の土の上に芽吹いた特攻花(テンニンギク)が、再びつないでくれた不思議な縁。「星野さんの最後の日々を、やっとご遺族に報告できました」と鶴岡さんは穏やかに語った。
=2008/08/12付 西日本新聞朝刊=






















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