【連載】花言葉は「生きなさい」 特攻花の物語<7>取材を終えて 平和願う心が咲かせた
【連載】花言葉は「生きなさい」 特攻花の物語<7>取材を終えて 平和願う心が咲かせた
2008年08月20日 12:06
鹿児島県・喜界島の空港近くに咲く特攻花(テンニンギク)。夏の風に揺れ続ける 「特攻花は結局、どこから来たんでしょうか」。連載中に読者からこんな問い合わせがあった。
博物学的に答えれば、特攻花と呼ばれるテンニンギクとオオキンケイギクは北米原産の外来種で、日本に根付いたのは、明治以降とされている。取材中も「戦前から咲いていた」という証言を何度か聞いた。
しかし、別の由来を信じる声も確かにあった。
鹿児島県・鹿屋には「南方から戻る特攻機に付着し、1945年5月から咲き出した」と語る人がいた。特攻隊員が島の娘から贈られた花を滑走路脇に遺(のこ)し、やがて繁殖したという言い伝えが残る同・喜界島には「上空から隊員が投げ落とした花が根付いた」という別の話もある。
今となっては真相を知るすべはない。しかし、取材を終えて強く思うことがある。特攻花とは、若くして散った特攻隊員たちを、そして悲惨な戦争を忘れない・忘れられない人々が、魂の追悼と平和の願いを託した花なのだ。質問に則れば、「特攻花はそんな人々の心から来た」と答えたい。
* *
連載中に、手紙やファクス、電話による感想や体験談が寄せられた。その多くは、あの戦争を憎みながら、胸にそれぞれの「特攻花」を咲かせる人たちだった。
福岡県久留米市の岡田哲也さん(72)は、国民学校3年生だった1945年春、近所の陸軍中尉に〈すでにワシとスズメの戦いになっている〉と聞き驚く。その後、中尉とその妻に元気がないと感じた翌日のラジオニュースで、中尉が沖縄方面の米艦隊に突入したことを知った。〈そのときの2人のお気持ちを思えば今でも胸が痛む〉
航空隊の兄を台湾沖で亡くした同県太宰府市の斉田千枝さんは、終戦の日に記した日記を引用。〈今日のおどろき、大東亜戦争終結の聖断降る。勝利の日までと頑張ったのに何が何だかただもうボーッとしてしまった。兄さん命を投げ出して戦ってくださったのに。勝利を信じて悠久の大義に生きてくださったのに〉。そして〈軍国少女だったころの私は、母の心を分かっていなかった〉とつづった。
フィリピンで捕虜になったという同県朝倉市の信国常実さん(83)からは、連載4回目に関し「田中タツさんに『お骨は間違いなくご主人のもの』と伝えてください」と電話があった。「収容所では午前と午後に穴掘りをするほど多くの死人が出た。亡くなると、ローマ字で名前が記された認識票が墓標に打ち付けられた。そこから名簿に写しただろうから、字の間違いはあって当然」と語り、「フィリピンで埋めた人たちのその後がずっと気になっておって…」と声を詰まらせた。
特攻花の由来を知らずに自宅の庭で育てていたという長崎県佐世保市の松尾智枝子さん(74)は〈小学生のころ、植え付けられた生き延びることを潔しとしない重圧感を、まだかすかに胸の奥に覚えていた。生きなさいという花言葉が、それを一蹴(いつしゅう)してくれた〉と書いてくれた。
〈特攻花の写真を見ていると1人の男性の影が浮かんだ〉と寄せたのは福岡市西区の女性(79)。若いころに思いを寄せていた男性の名を、半世紀近くたって、知覧特攻平和会館で戦死者名簿の中に見つけた。〈あふれる涙をぬぐいもせず、無言の会話をしばし続けた〉
* *
特攻を語る場合、「英雄か犬死にか」という極端な論議になることがある。右か左かといったイデオロギー論争にも陥りがちだ。いずれも思考停止が起き、議論が空回りを始めてしまう。
記者が特攻花の存在を知ったのは、絵本「すみれ島」を読んだ今年の春。そこから始まった特攻花を巡る旅は、60年以上も昔の出来事に思いを馳(は)せながら、今を生きる一人一人の物語に耳を傾けることだった。大切なのは「個としての人間」という視座だと感じている。そこから戦争を、そして平和を考えたい。
(この連載は下崎千加が担当しました)
=2008/08/19付 西日本新聞朝刊=
2008年08月20日 12:06
鹿児島県・喜界島の空港近くに咲く特攻花(テンニンギク)。夏の風に揺れ続ける 「特攻花は結局、どこから来たんでしょうか」。連載中に読者からこんな問い合わせがあった。
博物学的に答えれば、特攻花と呼ばれるテンニンギクとオオキンケイギクは北米原産の外来種で、日本に根付いたのは、明治以降とされている。取材中も「戦前から咲いていた」という証言を何度か聞いた。
しかし、別の由来を信じる声も確かにあった。
鹿児島県・鹿屋には「南方から戻る特攻機に付着し、1945年5月から咲き出した」と語る人がいた。特攻隊員が島の娘から贈られた花を滑走路脇に遺(のこ)し、やがて繁殖したという言い伝えが残る同・喜界島には「上空から隊員が投げ落とした花が根付いた」という別の話もある。
今となっては真相を知るすべはない。しかし、取材を終えて強く思うことがある。特攻花とは、若くして散った特攻隊員たちを、そして悲惨な戦争を忘れない・忘れられない人々が、魂の追悼と平和の願いを託した花なのだ。質問に則れば、「特攻花はそんな人々の心から来た」と答えたい。
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連載中に、手紙やファクス、電話による感想や体験談が寄せられた。その多くは、あの戦争を憎みながら、胸にそれぞれの「特攻花」を咲かせる人たちだった。
福岡県久留米市の岡田哲也さん(72)は、国民学校3年生だった1945年春、近所の陸軍中尉に〈すでにワシとスズメの戦いになっている〉と聞き驚く。その後、中尉とその妻に元気がないと感じた翌日のラジオニュースで、中尉が沖縄方面の米艦隊に突入したことを知った。〈そのときの2人のお気持ちを思えば今でも胸が痛む〉
航空隊の兄を台湾沖で亡くした同県太宰府市の斉田千枝さんは、終戦の日に記した日記を引用。〈今日のおどろき、大東亜戦争終結の聖断降る。勝利の日までと頑張ったのに何が何だかただもうボーッとしてしまった。兄さん命を投げ出して戦ってくださったのに。勝利を信じて悠久の大義に生きてくださったのに〉。そして〈軍国少女だったころの私は、母の心を分かっていなかった〉とつづった。
フィリピンで捕虜になったという同県朝倉市の信国常実さん(83)からは、連載4回目に関し「田中タツさんに『お骨は間違いなくご主人のもの』と伝えてください」と電話があった。「収容所では午前と午後に穴掘りをするほど多くの死人が出た。亡くなると、ローマ字で名前が記された認識票が墓標に打ち付けられた。そこから名簿に写しただろうから、字の間違いはあって当然」と語り、「フィリピンで埋めた人たちのその後がずっと気になっておって…」と声を詰まらせた。
特攻花の由来を知らずに自宅の庭で育てていたという長崎県佐世保市の松尾智枝子さん(74)は〈小学生のころ、植え付けられた生き延びることを潔しとしない重圧感を、まだかすかに胸の奥に覚えていた。生きなさいという花言葉が、それを一蹴(いつしゅう)してくれた〉と書いてくれた。
〈特攻花の写真を見ていると1人の男性の影が浮かんだ〉と寄せたのは福岡市西区の女性(79)。若いころに思いを寄せていた男性の名を、半世紀近くたって、知覧特攻平和会館で戦死者名簿の中に見つけた。〈あふれる涙をぬぐいもせず、無言の会話をしばし続けた〉
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特攻を語る場合、「英雄か犬死にか」という極端な論議になることがある。右か左かといったイデオロギー論争にも陥りがちだ。いずれも思考停止が起き、議論が空回りを始めてしまう。
記者が特攻花の存在を知ったのは、絵本「すみれ島」を読んだ今年の春。そこから始まった特攻花を巡る旅は、60年以上も昔の出来事に思いを馳(は)せながら、今を生きる一人一人の物語に耳を傾けることだった。大切なのは「個としての人間」という視座だと感じている。そこから戦争を、そして平和を考えたい。
(この連載は下崎千加が担当しました)
=2008/08/19付 西日本新聞朝刊=






















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